伊勢神宮外宮 豊受姫の話 その2
- 2013/02/20
- 12:42
豊受姫のお話のつづきです。
改めて説明しますが、豊受大神は伊勢神宮の外宮の神様です。
前回うろ覚えで天照大御神(アマテラス)の食事係とか書いてましたが、ちゃんと伊勢神宮外宮の社伝にありました。やっぱり食事係でした(笑)
『伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている[1]。(by wikipedia)』
それから1500年間ずっと、朝晩の神饌を奉るお祭りが続いています。
さて、この豊受大神、大神って名前につくぐらいの神様ですから、生半可な業績を残した人ではありません。一体、民衆が「大神」と思わず呼びたくなるほどの人物とは、いったい何をした人なのでしょうか。
そのヒントが『魏志倭人伝』にありました。
『魏志倭人伝』はどこかで聞いたことがあるかと思いますが、そう、邪馬台国の女王「卑弥呼」のことについて書いてある中国の文献です。その文献に豊受姫と思われる記述があるのです。
その前に『魏志倭人伝』、いったい何が書かれているのでしょう?
『魏志倭人伝』はその名前の通り『三国志』の国の一つ、「魏」が残した書物です。その「魏」に倭の女王から遣いが来たこと、倭を認めるとともに、倭の文化風習について、なかなか細かく興味深く記されています。(一応、倭とはおおむね日本列島周辺のことを指し、その倭の中に小さな国がたくさんあるとされ、その中のひとつが邪馬台国に当たります。)
まずは魏から邪馬台国へ行くまでの地理の説明、これがおかしな書き方をしているものですから、邪馬台国の場所は今でも議論の的となっているわけです。
そして倭の文化、男子は入れ墨の風習があるとか、性格はキチンとして折り目正しいとか、酒が好きだとか、動物の骨を焼いて占う占いが好きだとか、一夫多妻制だとか、それでも女の人は嫉妬しないとか(笑。うそだ)そんなことが書いてあります。
つづいて卑弥呼について書かれます。
ここからが本題です。
『魏志倭人伝』では邪馬台国の女王の不思議な生活を記し、その後卑弥呼は死んだと伝えます。
その卑弥呼が死んだ後、男の王を立てたが国中が服従せずに争いが起こるようになった、そこで卑弥呼の宗女※である歳十三の壹與(壱与、台与)(とよ・いよ)を立てて王としたところ、ようやく国が治まった、とあります。
※ 宗女とは、宗家の宗と同じで嫡出子であるとか、親せきの子であるとか、宗教的な意味で引き継ぐもののことではないか、など、諸説あります
このトヨです!
伊勢外宮の豊受姫はこのトヨに比定されています。
豊受姫は、邪馬台国の二代目の女王だったんです!
これはやっぱり食事係どころじゃありません。
よほど力のある女王だったとみえ、西日本にはあちこちに豊姫の足跡がみられるのです。
〈豊の国〉と言われる大分の「豊前」「豊後」、この「豊」も豊姫が滞在した、治めた名残とか。下関の豊浦宮(とゆらのみや)もその一つです。
その豊浦宮の説話から(ま、いろんな検証からですが)、豊受姫は神功皇后(じんぐうこうごう)だとする説もあります。
また新たな人物が出てきましたね。
この神功皇后は、明治時代では教科書に載るほどの武勇の皇后で、以前ブログで書いた角のある神さま、アメノヒボコの子孫であり、第15代応神天皇のお母さんです。詳しくはまた神功皇后で書きますが、唯一「天皇」でないのに『日本書紀』に載っている超つわもののゴッドねーちゃんです。
なんだか豊受姫が大変な人物になってきました。
でもこんな謎解き、これが古代史マニアの醍醐味です♪
そして先日、卑弥呼の墓と言われる「箸墓古墳」とトヨの墓と言われる「西殿塚古墳」の調査が初めて行われると発表がありました!
今まで、本当に宮内庁が調査を全くさせてくれなかったんですよ!
今回発掘調査まではできないようですが、新たな発見があることを期待しています!
何か大きな発見がありますように!
わくわく♪
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130214/k10015505051000.html